革命のファンファーレ〈西野亮博〉を読んで②
前回の続きで、西野亮博さんの「革命のファンファーレ」を読んで自分が思ったことを書きます。
自分の「読書」シリーズはまず、本の中の「これいいな!」って思った言葉を題名に出してそれについての説明を本文と自分の解釈を合わせて書いています。
イジリとイジメの境界線は言葉の強弱ではなく信頼関係の有無である
学校でもそうですが、いじめといじりの境目を引くことは難しいです。
西野亮博さんはその境目は信頼関係にあると言います。
例えば、お笑いバラエティーで一般の人からしたら「明らかにいじめだろ」という執拗な攻めをやっているものがあります。
しかし、あれは芸人さん同士のお互いに「笑いになる」という信頼関係のもとで成立しているのです。
いじられている側もある種「おいしい」と思って、受け入れているのです。
これをするには、いじる側といじられる側がどういう人間かお互い理解しており、
大丈夫という信頼があってできる芸なのです。
なので、素人の一般人が同じことをすると、いじめになってしまうこともあります。
ついでに、法律的には被害者が「いじめられた」と感じた時点でそれはいじめになります。
ネタバレしているものにしか人は反応しない
人を集客するときにある程度ネタバレをすることが重要です。
主催者側の考えでは
「これはお客さんにサプライズでやった方が驚きで楽しんでもらえるぞ。」
というコンテンツがあるかもしれません。
しかし、これはお客さんからしたら
「このコンテンツは面白いかどうかわからない」
という状況になります。
現在はスマホとアプリの普及により、面白いコンテンツはいくらでもあり、
インスタ映えスポットもどこに行ってもあります。
そんな現代社会では人はコンテンツ選びで失敗したくないのです。
水族館ではイルカのショーがあるから見に行く。
等々その場所で自分はどのように楽しめるかを知っているものの方が食いつきがいいのです。
これは授業でもあると思います。
導入で「自分たちは何をこれから学んでいくのか」を提示してゴール(得られるもの)をわかりやすく提示することがこれからも求められるでしょう。
追加:
西野亮博さんの革命のファンファーレその1
堀江貴文さんの教育論